トップページ湯川鶴章著書第4章爆発するクリエイティビィティ

第4章爆発するクリエイティビィティ

▼逆からの未来予測
ソーシャルメディアは今後どのような形で発展していくのだろう。またテレビ、ラジオ、新聞などといった従来型マスメディアとは共存していくのだろうか。
こうした近未来予測をする上でわたしはある手法を実践している。それは、まず究極の姿を想定してから、次に近未来を予測するという手法だ。逆からの未来予測だ。

Socialmediaなぜ逆から予測するのかというと、実は究極の未来を予測するのはそれほど難しくなからだ。多くの場合、究極の未来に向けた方向性は既に見えている。究極の未来の姿とは、多くの人の要求、ニーズが実現されたものであるはず。なぜなら多くの人が望む機能やサービスを実現させようと、世界のどこかでだれかが技術の開発、改良を続けているからだ。
実際に究極の未来の予測が実現するのかどうかは重要ではない。究極の未来までのどこかの時点で地球に大きな隕石が衝突し、状況が一変するかもしれない。不確定要素が多すぎて、遠い未来の実際の姿を正確に言い当てることは実際には不可能だ。大事なのは究極の未来への方向性を見定めること。方向性が分かれば、現在からその方向の延長線上に近未来の姿が見えてくるはずだからだ。
そしてその未来への方向性が多くの人の抱くニーズをベースにしたものであるとしたら、多くの人が抱くニーズとはなんであるのかを探ればいい。では多くの人は、メディアに対してどのようなニーズを持っているのだろうか。

▼あなどれない「弱いニーズ」
実はそれほど強いニーズは存在しないと考えている。「番組の内容がくだらない」などといったコンテンツ面での不満はあるだろうが、テレビ視聴の形をこのようなものにしたいという強いニーズを持っている人はそう多くない。
強いニーズはなくとも、「弱い」ニーズはある。たとえば「きれいな画面でみたい」というニーズ。今までのテレビの画面の美しさに対して、特に不満があるわけではない。ただ「きれいなほうがいいかなあ」といった具合の「弱い」ニーズだ。
しかしハイビジョン対応テレビに買い換えた人の多くは「もう元の画質には戻れない」と語る。いったん「弱い」ニーズを満たすものに慣れてしまえば、それなしの状態には戻れないというわけだ。恐るべし、弱いニーズ、である。

▼「オンデマンド」「モバイル」「参加型」
そうしたあなどれない弱いニーズにどのようなものがあるだろうか。
わたしは前著「ブログがジャーナリズムを変える」(NTT出版)で、次のようなキーワードを挙げて多くの人が持つ弱いニーズを形容した。それは「オンデマンド」「モバイル」「参加型」というキーワードだ。
もう一度ここで簡単に説明しよう。
「オンデマンド」とは、見たい番組を見たいときに見たい、というニーズに応える機能だ。見たい番組が夜中にしか放送されていないのなら、今なら夜中にテレビの前に座らなければならない。オンデマンド機能があれば、放送時間に生活を合わせる必要がなくなる。そうなればいいなあ、というような弱いニーズだ。
このオンデマンドのニーズに応えようとしているのが、ネット上のオンデマンド型ビデオポータルの「ギャオ(Gyao)」であり、ハードディスクレコーダーである。数多くの番組の中から自分の見たいものを選んで見たいときに見ることができる、というものだ。
今後はそれに洗練された推薦機能が搭載されていくだろう。個人の嗜好に合わせて面白そうな番組を推薦したり、見るべき番組を推薦してくれるというものだ。
「モバイル」とは、番組を移動中や家の外でも見たいというニーズに応える機能。ワンセグ放送なども、このニーズに応えようというもの。今後はモバイルでもオンデマンド機能が搭載されていくだろう。
最後は「参加型」。たまには見るだけではなくて自分も番組作りに参加したいというニーズに応えるサービス、機能だ。投稿ビデオサイトのユーチューブはまさに、一般視聴者のメディアに参加したいという欲求に応えることで急成長を続けているサービスだ。

▼「参加」のニーズは意外に曲者
さて今回、ソーシャルメディアについていろいろと調べる中で気づいたことは、この「参加型」というキーワードが非常な曲者であるということだ。ここには人間の生きる意味にまで関係する欲求が含まれるのではないか。このキーワードだけは、弱いニーズにとどまらず、いったん火がつけば大爆発をするのではないか、ということだった。そう考えるようになったのは2006年の9月、インターネット広告代理店大手DACの徳久昭彦取締役CTOと食事をしたときのことだ。徳久氏は、中華料理をつつきながら不意にセカンドライフの話を始めたのだ。「セカンドライフはほんと、やばいっす。はまっちゃいますよ。若い連中なんて仕事が手につかないくらいはまってますよ。今度プログラマーやデザイナーと組んでセカンドライフ上で何かを作ってやろうと思うんです……」。
その後2007年1月、DACは、日本の大手企業として初めてセカンドライフの出店支援事業に乗り出すことになるのだが、それはここではひとまず置いておこう。
わたしはそれまで、ソーシャルメディアの存在価値を、現実の社会の人間関係をネット上で再現するものという程度にしか考えていなかった。ソーシャルメディアを通じて新しい友人が少しはできたりするかもしれない。しかし、その程度のもの。社会を根源から揺さぶるような大きなパワーにはなりえないと思っていた。人々が複数のSNSに所属するのは、人間の多面的な「顔」を表現したいから。会社や業界で見せる顔、学生時代の友人に見せる顔、趣味のサークルの中で見せる顔、家族の中で見せる顔。それぞれの顔を表現するために、ビジネスつながりのSNS、同窓会SNS、音楽SNSと使いわけるのだろう。セカンドライフの場合は、現実社会とは違う自分の顔を演出するために、アバターを使うのだと思っていた。それもある意味、現実の生活の中の1つの顔の表現として―― と。
「結局、本当の自分とは違う自分になりたいということで、セカンドライフがもりあがっているんですよね」と徳久氏にふると「そういう部分もあるかもしれないですが、やはり自分のクリエイティビティを表現したいからだと思いますよ」という答えが返ってきた。
クリエイティビティ……。
本書でここまで何度も繰り返してきた言葉が脳裏に焼き付けられた瞬間だった。それ以来、クリエイティビティのことが頭から離れない日が続いた。人間はそれほど自分のクリエイティビティを表現したいものなのだろうか……。

▼マルクスから学んだ生きる意味
そんなときふとあることを思い出した。今から20年以上も前の話だ。わたしは米国で大学教育を受けていた。4年で卒業しなければならないところを8年もかかったのは、卒業に必要な単位が十分にそろったあとも、勉強がおもしろくなり次々と興味のある科目の授業を受け続けたからだった。
レスビアン史、メキシコ文化人類学、性社会学など、興味のおもむくままずいぶん多くの授業にでたらめに出まくっていた。ふと「冷戦時代の米国でマルクス経済学はどのように教えられているのだろう」という疑問が浮かび、マスクスに関する授業を取ることにした。
当時わたしはマルクス経済学に徹底的な偏見を持っていた。ちょうどカルト集団の経典を学ぶような心積もりで、授業に望んだ。「どれだけいい話を聞いても絶対洗脳されてはならない。洗脳されてなるものか」と。
授業は非常に客観的な内容だったと思う。マルクスが間違っていたと批判される点もカバーしながら、マルクスの基本的な考え方を教えていた。
そして当初の心積もりとは裏腹に、大学生活の中で最も感銘を受ける授業となった。なぜ人は働くのか、なぜ歴史は動くのか、といった、それまで自分が抱いていた疑問に見事に答えてくれたからだった。
そしてなぜ人は働くのかという問いに対するマルクスの答えは、今でも自分の中の人生の指針になっている。

▼人間は自分を表現するために生きている
マルクスによると、労働は本来、人間の本質の実現という性質を持つものだという。非常にわかりづらい概念で、しかもわたしは英語で学んだため、マルクスの主張を正確に理解しているかどうか自信はない。ただ自分の中ではマルクスの教えを次のように理解している。
マルクスによると、本来人間は次の3つの喜びを得るために生きている。
1つは、自分を表現する喜びだ。これはなにもクリエーターに限った話ではない。農民であっても自分の作る作物の中に自分を表現する。形のいい作物を作ることに一生懸命になる農民もいるだろうし、おいしい作物を作る農民もいるだろう。とにかく大量に作る農民もいるだろう。それぞれが自分の作物の中に自分の考えであるとか、信条であるとか、生き方であるとかを具現化しようとしている。作物を通じて自分の何かを表現しているのだという。
2つ目の喜びは、自分が作ったものの中にある自分が表現したい何かを他人が理解し、評価してくれる喜びだ。客の「おいしい」の一言を聞きたくて工夫を凝らすラーメン店の店主などは、まさにこの2つ目の喜びを得たくてがんばっているわけだ。
3つ目の喜びは、自分の表現を他人が理解、評価してくれる一方で、他人の表現を理解、評価できる喜びだ。自分と他人との間で一体感が生まれ、自分と他人がつながる喜びだ。仲間意識、連帯感というものもこうした喜びの一種なのだろう。
このことを学んだときに、自分の中に漠然と抱いていた生きる意味が明快に言葉に表されたような気がした。またその後の自分の人生の中でも、決して流されることなく、この3つの喜びを得るために生き続けたいと思って生きてきた。
何度か意にそぐわない仕事をしなければならないような状況に陥りかけても、この3つの喜びを大事にして生きたいという思いから、わがままを押し通して周りに迷惑をかけたこともあった。周りの理解と協力のおかげで、わたしはいまだにこのように本を執筆するなどの方法で自分を表現しながら生き続けられることを、非常にありがたく思っている。

▼衣食住足りて表現する喜びへ
ではすべての人が、こうした表現の喜びを得ることができるかといえば、現実的にはそうではないのかもしれない。生活のために少しでも多くの収入を得る必要があり、表現どころではない、という人も多いだろう。
行動主義心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求の階層を主張したことで有名だ。いわゆるマズローの欲求のピラミッドと呼ばれるものだ。
ピラミッドの一番下の階層に位置するのは「生理的欲求」だ。人間はまず、生きていくために必要な食物、空気、性など生理的欲求が満たされなければならない。
下から2番目は「安全と安定の欲求」。1番下の生理的欲求が満たされれば、次に「安全な場所に住みたい」「安定した生活を送りたい」と思うようになるものだということだ。
3番目は「所属と愛の欲求」。衣食住が整えば、次に愛情がほしくなるということらしい。
4番目は「承認欲求」。認められたい、評価されたい、といった欲求だ。
この4つの欲求が満たされて初めて、人間は「自己実現の欲求」を持つようになるという。自己実現とは、自分の可能性の限りに生きる、自分の能力を全開させて生きる、という意味なのだろうと思う。
自分を表現したい、クリエイティビティを発揮したい、という欲求は、「承認欲求」や「自己実現欲求」の1つの形ではなかろうか。つまり自分を表現するという欲求は、衣食住という生活の基本的なニーズが満たされれば、さらに強くなると言うことだ。
今、先進国では物余りの時代だという。多様化の時代ともいわれる。基本的な物質的欲求が満たされ始めたため、人々のニーズは多様化し、マスプロダクションで生産されたものは売れなくなってきているのだ。人々は物を買うという行為の中でも、自分らしさを追求し始めた。自分らしさを表現し始めたということだ。
衣食住という基本的な欲求が満たされ、自分らしさを表現したい人が増え始めた中で、偶然にも個々の表現に最適の道具が登場した。インターネットである。
マスコミを介してではなく世界中に自分自身を表現できる道具が登場したのだ。ソーシャルメディア爆発の根底にはクリエイティビティの爆発があり、クリエイティビティが爆発しているのは、表現ニーズの高まりと表現ツールの登場が同時に起こっているからだ。

▼「威のゲーム」「富のゲーム」から「智のゲーム」へ
情報社会学の権威、公文俊平氏は、著書「情報社会学序説」(NTT出版)の中で、近代化には3局面あり、今は情報化の局面が始まったばかりだと主張している。
情報化の前には、国家化、産業化という局面が存在した。国家化の局面には、国家が中心的なプレーヤーとして国際社会の中で、「威のゲーム」を繰り広げてきた。軍隊を作り、植民地を作ってきたわけだ。国家が軍事力をベースに影響力を行使してきた。
その次に始まる産業化の局面では、企業や企業家が「富のゲーム」を繰り広げ、経済力をベースにして影響力を行使してきた。
そして1950年ごろから始まった情報化の局面では、成熟化するにつれ「智のゲーム」が繰り広げられるようになるという。「智のゲーム」のプレーヤーは、知識、情報を生産することで評判を高め、説得力、誘導力を獲得することになるという。
公文氏の説をベースにすれば、今まさに情報化の局面に位置するため、インターネットという場に置いて人々がソーシャルメディアに参加して、知識、情報を生産し始めたということになる。さらにいえば、今後ますますこうした活動は活発になるということだ。今はソーシャルメディア爆発前夜と言ってもいいかもしれない。
しかし公文氏の言うように、人々は評判のために知識、情報を生産するものだろうか。確かに金銭的な収入にならなくても、ブログなどで自分の知識を披露する人は、いることにはいる。しかし、そういう人たちはまだまだ少数派。「威のゲーム」や「富のゲーム」が歴史を動かしてきたように、社会の主流の人たちが「智のゲーム」を繰り広げ、これからの時代を切り開いていくことに本当になるのだろうか。
幸運にも公文氏に会って議論できる機会を得たので、幾つかの質問を直接ぶつけてみると、公文氏はやはりモズローの三角形を例に挙げ、人々が経済力よりも智の力による影響力の行使を求め始めていることを説明してくれた。人々が経済的に満たされてくれば、財力によって人々を動かすことは難しくなる。経済的に豊かになった社会こそ、智力が物を言う社会になるというのだ。
しかし金銭的な報酬もなく人々は表現するのだろうか、情報を発信するのだろうか。
それは多分、逆なのだろう。経済的に満たされるから表現する、ということだ。生活の基本的欲求が満たされたから、表現することに対する欲求が強まっているわけだ。つまり満たされて表現する人は、情報を発信することに金銭的な見返りを要求しない。物余り、多様化が今後も続く基本的な傾向だすると、長期的にみて金銭的見返りを要求しない情報やクリエーションがますます増えていくというのが今後の方向性とみて間違いないだろう。

▼プロがアマに負けるのだろうか
しかし、ユーチューブにアップロードされているような映像をクリエイティビティと呼べるのだろうか。ブログの記事をジャーナリズムと呼べるのだろうか。稚拙なスキルしか持ち合わせていないアマチュアのコンテンツが、プロのテレビマン、プロのジャーナリストの作り出すコンテンツに勝てるというのだろうか。
わたしはこれまでの著書で参加型ジャーナリズムに関しての自論を展開してきた。そのたびに新聞記者やジャーナリストと呼ばれる人たちから受けた反論は、「多くのアマチュアの取材や文章は、到底ジャーナリズムと呼べる代物ではない」「あんなものにわれわれの仕事が脅かされるわけがない。これからも新聞ジャーナリズムは安泰だ」などというものだった。
わたしが議論したことのあるテレビ関係者も「ユーチューブにアップされているビデオの質は本当にひどい。あんなのがわれわれの敵になるわけがない」と憤っていた。「日本にも多チャンネル時代がくるといわれたもんだが、衛星放送は不振続き。日本人は多様性など求めていない。日本人はやはり地上波放送が好きなんだ」と言う人もいる。「1億総表現者時代がくるなんてウソ。ビデオカメラは安く性能がよくなっているが、それでもほとんどの人は子供の運動会以外にビデオカメラを使わない。家庭用ビデオで良質の映画を製作しているなんて話聞いたことがない。だれもがビデオカメラでクリエイティブな映像を作成するなんて言うジャーナリストは、家電業界の手先に違いない」と激高するテレビ局関係者もいた。
確かに平均的なスキルという意味では、現時点ではプロのほうがアマチュアよりも断然上である。しかし人々のクリエイティビティが今後爆発する中で、これからもそういう状況が続くのだろうか。

▼ギルドの親方のせせら笑い
公文氏は「情報化社会はだ始まったばかり。アマチュアのスキルレベルが低いのは当たり前。これからよくなっていくはず」と言う。国家化の局面では、貴族や武士たちは農民で構成された軍隊をばかにした。確かに個々人の武術というスキルのレベルでは、貴族や武士のほうが農民のそれよりも上回っていた。しかし西南戦争では、農民などの平民で構成する官軍が、士族で構成する薩軍を打ち負かした。1対1の個人戦で技を競い合えば、武芸の達人のほうが素人よりも上だろう。しかし全体戦となれば、最新の武器を持った一般人の方に軍配が上がった。この傾向は兵器が進歩するにつれ、さらに顕著になる。現在の戦争において、最も重要なのは兵器の能力であり、兵士一人一人の武術の腕前などほとんど意味のないものになっている。
産業化の局面では、職人組合であるギルドの親方は、大量生産の製品をばかにし嘲笑した。しかし製造技術の進歩とともに大量生産の製品の品質は大幅に向上した。いまやわれわれの身の回りは大量生産の製品であふれ返っている。手作りのほうがよいとされる物は、もう数えるほどしか存在しないようになっているのだ。
本当の情報化はこれからだ。情報発信ツールの飛躍的な改良と情報発信欲求の高まりを背景に、アマチュアの表現物はプロの表現物に対し質で肉薄し、量で圧倒するようになるのではないだろうか。

▼日本人に表現欲求はあるのか?
米国人は日本人と比較して自己表現の欲求が強く、自己表現がうまく、これに対して日本人の国民性は受身だといわれる。それは本当なのだろうか。
日記という枠組みを提供し、その中での表現を奨励するミクシィと、ユーザーにより多くの自由度を与えるマイスペース、あるいはセカンドライフ。日本人ユーザーは、どちらを支持するのだろうか。
モバゲータウンを運営するディー・エヌ・エーの守安氏は「セカンドライフのように、何もかもユーザーが作り出さないといけない空間って、ユーザーにとって結構きついのではないだろうか」と指摘する。モバゲータウンは、クリエーターを後押しする仕組みを作っていくとはいうものの、これからもあくまでも運営者側がある程度の枠組みを提供する考えだ。ユーザーはその枠組みの中で、自分自身を表現することになる。
スクウェア・エニックスの乙部氏も同様の意見だ。これからはメーカーが提供する要素と、ユーザーが作り出す要素の両方を取り込んだゲームを開発していくことは間違いないが、セカンドライフのようにユーザーに徹底的な自由裁量を与えるようなゲームを作るつもりは今のところないようだ。
ミクシィにしろ、モバゲータウンにしろ、ファイナル・ファンタジーにしろ、運営者側がある程度の枠組みを提供したほうが日本人ユーザーは喜ぶ、と考えているようだ。日本人と米国人では表現欲求のレベルが違う、とういことだ。

▼表現欲求は日本人も米国人も同じ
わたしは通算20年間、米国で生活した。人生の半分近くを米国で過ごしたことになる。学生時代の一時期は、日本語にまったく触れることのない生活を送った。夢も英語で見るようになり、このペースで進めば自分の人格の一部分が米国人になってしまうのではないかと思ったほどだった。
そうした経験から言うと、なるほど米国人は自己主張を好み、日本人は控えめなところが確かにある。そうした国民性の違いのようなものは、これまでに何度も目にしてきた。そういう文化的な違いは確かに存在するものの、それでも米国人も日本人も同じ人間であり、本質的には何も変わらないとわたしは考えている。
学生時代に多くの米国人の友人を持った。最初は日本人との文化的違いが目についたが、何人かと深く付き合えば付き合うほど、人間はどこの国の人でも皆同じだと思うようになった。やさしい米国人、傲慢な米国人、謙虚な米国人、冗談が好きな米国人、まじめな米国人、不まじめな米国人……。日本で見かけるタイプの人間を、すべて米国で見た。文化的な違いは確かに存在するが、それほど大きなものではなかった。少なくとも一般的に言われているほど日本人は特殊ではない、というのがわたしの経験からくる実感だ。
2005年9月に、ネオテニーの伊藤穣一氏と雑誌の対談でご一緒したことがある。伊藤氏は日本のインターナショナルスクールを卒業後、米国の大学で教育を受けた。現在でもブログを英語で書くなど、英語が生活のかなりの部分を占めている人だ。その伊藤氏もやはり、日本人と米国人の間に大きな本質的な違いはないと考えているという。何かにつけて飛び出してくる日本人特殊論には、大いに首を傾げるのだそうだ。
たとえば、日本で薄型のノートパソコンが流行れば、米国人は大雑把な造りのものを好むが日本人は小型で性能のいい機械を好む、という比較文化論が飛び出す。しかしそれは国民性や文化の違いというではない。米国人は車で移動するのでノートパソコンが大きくても気にならないが、日本人はノートパソコンをカバンにつめて移動する。小型でなければ疲れる。ただそれだけのことだ。
日本で、テレビパソコンが売れるのも、アパートやワンルームマンションに住む独身者にとって、テレビとパソコンが1つになっているほうが省スペースになっていいというだけで、情報を映像でとらえることが得意な国民性だからということではない、と伊藤氏は主張する。
わたしや伊藤氏よりも、米国人のことを知らない人たちが展開する日本人特殊論。彼らは、何を根拠にそこまで自信を持って日本人の性質を断定できるのだろうか。

▼本当に人は無償で表現するものなのか
プロとアマチュアを定義するとき、その人が仕事の対価として報酬を得ているかいないかで区別することがある。金銭的な見返りもないのに、人は物を作り出すものなのだろうか。前著「ブログがジャーナリズムを変える」を執筆するために取材していたときも「お金がもらえないのに情報を出すやつなんていないよ」と言って参加型ジャーナリズムの可能性を頭から否定する人が多かった。
今の世の中の常識なら確かにそうかもしれない。他人への影響力を得るには財力が必要で、生活の基本的ニーズを満たすためには金銭が必要だからだ。
恐らく公文氏の言うところの国家化の局面の中で、「次の時代には財力が交渉力を持つようになる」という予測をしたとしても、だれも信じなかっただろうと思う。それと同じかもしれない。
戦国時代に敵国を支配下に置くのに、財力よりも武力のほうが有効だからだ。当時は「日々の生活の中でいずれ武力は不要になる。経済力のほうが重要になる」ということを想像することさえ困難だったのではないだろうか。
その後、国家が形成され、国家の中での秩序が保たれるようになると、よほどのことがない限り武力、暴力は行使されなくなる。秩序を守らない者に対しては警察などの国家権力が最終的な手段として武力、暴力を行使するが、それ以外の状況で物を言うのは暴力よりも財力である。江戸時代に300年も太平の世が続くと財力を持つ商人が大名に物が言えるほどの力を持ったのはこのためだ。
それが社会の情報化が進むと、今度は財力よりも智の力が影響力を持つようになる、と公文氏は予測する。社会の産業化の局面の中では衣食住という生活の基本ニーズを満たすために財力が必要だったし、他人への影響力を行使する上でも財力は有効だった。ところがこれからの社会では、生活の基本ニーズが満たされた人たちの自己実現欲求を満たすためには智の力が必要であり、社会の中で影響力を持つために他人を説得し動かすための知力、他人に尊敬されるような知力が必要になる。
つまり、自分の自己実現欲求を満たすために金銭的な見返りなしに智力を使ったクリエイティブな制作をする人は増えるだろうし、人から尊敬を集め他人に影響力を行使するために知力を使ったクリエイティブな作品を作る人も増えるだろう。最初の問いに答えれば、金銭的な見返りなしに表現活動を行う人は増えていくだろう、ということだ。

▼時間差で開花する日本人の表現欲求
伊藤穣一氏と対談したときに「日本人も米国人も本質的に変わらない」という同氏の意見にわたしも異論はなかった。しかし同氏の考えをより詳しく聞こうと思って、あえて反対意見を述べてみた。「でも(ユーザー参加型ネット百科事典の)ウィキペディアは、米国では成功しているが、日本では利用者がまったく伸びてないですよね」。それに対する伊藤氏の反応は「まだね……」だった。いずれ日本でも利用者が増える、と伊藤氏は考えているようだった。
ウィキペディアは、ユーザーが自分の知っていることや、専門分野のことをそれぞれ書き、編集する百科辞典である。金銭的見返りはない。自分の知っていることを表現する、という程度の喜びしか得ることができない。それでも日本人は表現するのだろうか。
その対談から半年後の2006年3月。ネット視聴率調査のネットレイティングス社が、日本でもウィキペディアの利用者が急増している、という発表を行った。同年2月の月間利用者は700万人以上。1年間で利用者が3倍以上に膨れ上がったという。伊藤氏の予測は正しかった。時間差はあったが、やはり日本でもウィキペディアは爆発的成長を遂げた。
ウィキペディア同様にQ&Aサイトの「教えて!goo」や「ヤフー知恵袋」なども、ユーザーの書き込みで成立する典型的なソーシャルメディアだ。両サービスとも長らく利用者が少なかったのだが、2007年1月にはともに利用者が400万人を超えた。ネットレイティングス社によると、「教えて!goo」の月間利用者は、前年1月の229万人から428万人(前年同月比187%)に、「ヤフー知恵袋」が、156万人から477万人(同306%)にと、それぞれ大幅に上昇したという。
日本人ユーザーは表現することに慣れるまでに、少し時間がかかる。それだけのことかもしれない。しかしいったん表現を始めると、表現する喜び、評価される喜び、共有する喜びに目覚め、より積極的に表現する。ウィキペディアや「教えて!goo」、「ヤフー知恵袋」のユーザー層の大幅な伸びは、日本人が表現欲求に目覚めてきている証拠ではなかろうか。
モバゲータウンの守安氏や、スクウェア・エニックスの乙部氏が、セカンドライフのような自由な空間を提供しても、日本では今すぐには受け入れられないと考えることは正しいのだろう。彼らのほうが、わたしよりも日本のユーザーのことをよく知っているのだと思う。
しかし、ウィキペディアや、「教えて!goo」、「ヤフー知恵袋」などのサービスがある程度の時間をおいて広く受け入れられるようになったように、セカンドライフのような自由な空間もやがて受け入れられるようになるのではないか。表現する喜びに目覚めた日本人が徐々に増えれば、時間差を伴って日本人のクリエイティビティもいずれ爆発するようになるのではないか。そんなふうに思えてならない。

▼波紋は外側から内側へ
わたしは前著の『ネットは新聞を殺すのか』(2003年、共著、NTT出版)と『ブログがジャーナリズムを変える』(2006年、NTT出版)を通じて、新聞が、既存メディアが今後どのように変化するのかを見極めようとしてきた。本を出した後に、「新聞、テレビは今後もそう変らない」と多くの業界関係者から反論を受けた。もちろん今では既存メディアも変化してきている。少しずつソーシャルメディアのエッセンスを取り入れて進化しつつある。しかしその変化はそれほど早くはなかった。ある意味、「今後もそう変らない」という反論は正しかった。
しかし、前著の出版後にわたしが気づいたのは、実は大きな変化は既存メディアの外側で起こっているということだった。大きく変らない既存メディアを尻目に、ソーシャルメディアという新しいタイプのメディアが立ち上がり、そのメディアが世の中に大きな影響を与えようとしているのだった。既存メディアのソーシャルメディア化も、そうした新しいメディアの影響を受けてのことだ。
静かな水面に小石を投じると、小石が落下したところから波紋が広がる。波紋は内側から外側へ広がっていく。ところがメディアの世界を襲う波紋は、外側から内側に押し寄せているのだ。
ソーシャルメディアの波は今、始まったばかりである。ブログが登場したかと思えば、SNSが一世を風靡し、ポッドキャストが話題になったと思えば、次にユーチューブが人々のメディア消費の形を変えようとしている。そして次にきたのが仮想空間のセカンドライフだ。この目まぐるしいメディアの変化が21世紀に入って、わずか数年で起こっているのである。次にどのようなメディアが登場するのだろうか。楽しみでもあり、恐ろしくもある。しかしどのようなメディアが登場しようとも、その基本になるのは人々のクリエイティビティであり、そのクリエイティビティを共有すること、ということだけは間違いなさそうだ。

この原稿は出版に向けた仮原稿の段階のものです。引用にはご注意ください。湯川鶴章


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