このようなことを「次世代広告テクノロジー」という本に書いたのだが、面白い反響をいただいた。
オンライン広告会社オプトでは、この3層の存在について社内で議論をしたそうだ。
同社の代表取締役、海老根智仁氏が寄稿したネットメディアcnetのコラムによると、議論の結果次のような3層の姿が浮かび上がってきたという。
「メディア利用の変化をまったく感じていない層」の特徴
・60歳以上が圧倒的に多い。
・マス4媒体の接触が中心であり、パソコン、モバイルの活用はほぼ皆無である。
「変化を認識している層」の特徴
・25歳~59歳と幅広い層が存在する。
・年代が低くなるほど、PC、携帯電話を中心にマス4媒体に接触を行っている。
・年代が高くなるほど、マス4媒体の接触が中心になるが、インターネットは利用をしている。
「変化さえも認識できない層」の特徴
・10歳代~24歳が多い。
・マス4媒体を利用していない傾向が強い。加えそれに対し興味が無い。
・半面、パソコン、携帯の活用は他の世代に比べ明らかに多い。
・年代が下がる(10歳代)と、その傾向はより強まる。
やはり3層は実際に存在すると考えてもよさそうだ。自分の周りに自分と同じ年齢層しかいなければ、自分のメディア消費の形が主流だと勘違いするかもしれないが、今日の日本の社会はメディア消費の過渡期にあり、ほかの2層ではまったく異なるメディア消費の形が主流であるのだ。
そして人間というものは、それほど急速に習慣を変化させない。特に年齢の高い層は変化を嫌う。従来型メディアに慣れ親しんだ層のほとんどの人が、ケータイ中心の生活に移行することなど、ありえない。
さて2つ目の根拠である「変化は周辺部分から押し寄せてくる」という話をしよう。
▼急速な技術革新に見舞われた業界に通じる法則性
「技術革新に見舞われた業界は、同じように変化する」とマサチューセッツ工科大学のクラーク・ギルバート教授は主張する。
図は、コンピューター業界の売上高推移のグラフである。2本の線は、1本がミニコンピューター(パソコン)、もう1本は「メーンフレーム(大型コンピューター)である。
パソコンが登場した当時、大型コンピューターのメーカーの幹部たちが「あんなおもちゃのようなコンピューターに何ができるのか」とパソコンを揶揄したといわれる。
反対にパソコンメーカーの幹部は、「大型コンピューターは過去の遺物。絶滅寸前の恐竜だ」と反論していた。
しかしこうした言い争いとは裏腹に大型コンピューター、パソコンともに、しばらくは順調に売上高を伸ばすことになる。一方が他方のシェアを奪うということは起こらなかった。
双方とも順調に売り上げを伸ばすのだが、あるときパソコンの売上高が大型コンピューターのそれを抜くことになる。そしてしばらくは双方とも売上高の推移は横ばいに推移する。そして再びパソコンが大型コンピューターの売上高を抜いてからは、パソコンの売上高は伸び続け、大型コンピューターの売上高は減少の一途をたどる。
「大型コンピューターは絶滅する」というパソコンメーカーの幹部の予測は、今日でも実現していない。一部の役割はパソコンなどの小型機に取って代わられたが、大型コンピューターでしかできたない業務も多々残っている。しかし、大型コンピューター事業は、収益性も高くなく今後成長が見込める事業でもなくなった。
ギルバート教授は、急速な技術革新に見舞われた業界を20前後調査したが、どの業界でもこのような売上高推移を確認できたという。
わたしがギルバート教授を取材したのは2002年。教授が、新聞業界にも同様の変化が訪れるという論文を発表した直後だった。
そして今わたしは、同様の変化の津波が広告業界にも訪れると考えている。
▼新聞社サイトが紙の部数に影響なかったわけ
どうして急速な技術革新に見舞われた業界は同様の売上高推移をたどるのだろうか。
それは、新しい技術に基づく製品が、従来からある技術に基づく製品では満たすことのできなかったニーズに応えるところからシェアを広げていくからだろう。新しい製品が、従来からある製品の利用者を完全に満足させるところまで技術的に完成していないからだろう。新しい製品の可能性や持ち味を十分に引き出したり、活かす環境が整っていないからだろう。
パソコンの場合は、まずテクノロジーマニア向けのニーズを満たす製品として普及が始まった。わたしはパソコンが普及し始めたころに米国のカリフォルニア州で学生生活を送っていたが、パソコンが登場する前は、テクノロジー好きの学生たちは大学のコンピューターに群がって自分たちでプログラミングなど組んで遊んでいたものだった。その後パソコンが開発されてからは、そうしたテクノロジーマニアたちは、自分の部屋にパソコンを持ち始めた。
だからといって大学が大型コンピューターを廃止処分するわけもなかった。よってパソコンの売り上げが伸びても、大型コンピューターの売り上げが落ちることはなかった。双方とも売り上げを伸ばしたのである。
1990年代半ばから2005年ごろまでの間、新聞業界内で「ネット上で無料でニュースを見せるほど愚索はい。そんなことをしていては紙の新聞が売れなくなる」と主張する人がいた。しかし実際にはこの時期に、ニュースサイトを運営していることが原因で紙の新聞の部数が落ちたという話は聞いたことがなかった。複数の新聞関係者からは「意外にも、ニュースサイトのアクセスが伸びても、紙の部数には影響なかった」という安堵の言葉を聞いた。
この時期においては、「紙の新聞がなくなるはずがない。パソコンの狭い画面でニュースなんか読んでられない」と主張した人のほうが正しかったのだ。ネット接続は定額性ではなかったので、アクセスするたびに料金がかかった。ネット上でゆっくりニュース記事など読んで入られなかった。パソコンを立ち上げることさえ面倒だった時代だ。その点、紙の新聞は便利だった。毎日宅配されてくるし、家族がテーブルの上に置いてくれてある。気になれば、すぐに手に取って読むことができた。
ニュースサイトを愛用者の中心は、早くからパソコン中心の生活を送っていた技術者や、パソコンマニア、情報感度の高い人たちだった。もともと新聞を購読していなかった人たちや、新聞を複数の情報チャンネルの1つと位置付けネットの登場後も新聞の購読を止める気がない人たちである。ニュースサイトで無料で記事を閲覧できるようになっても、紙の新聞の部数には影響がでるわけはなかった。
ところがネット接続が定額性になり、朝起きたり、家に帰った時点で、とりあえずパソコンを立ち上げておく人が増えた。パソコンが常時立ち上がっているので、気になるニュースがあれば、パソコンで気軽に調べることができた。パソコンでニュースを読むことの不便さが軽減されたのだ。紙の新聞の便利さという優位性が薄れたわけである。ニュースサイトという新しい製品の持ち味を活かす環境が整ったわけだ。いよいよ、ニュースサイトと紙の新聞が競合する段階に入ったわけだ。
従来の製品が主流の時代から、新しい製品が主流の時代への過渡期に入ったのである。
▼変化は周辺のグレー部分から
過渡期には、複数のユーザー層が並存し、従来型技術に基づく商品の売上高が急速に低下することはない。しかし長期的には さらに技術革新が進み、環境が整えば、売上高が逆転することになる。
この過渡期の姿を別の図にしてみよう。
まずもともとの製品、サービスが存在する。従来から存在するコアな製品、サービスだ。変化の過渡期に入ると、そのコアな領域の周辺に新しいグレーの領域が生まれてくる。コンピューターといえば大型コンピューターしかなかった時代におもちゃのようなパソコンが登場したといわれたころは、コアの部分が大型コンピューターであり、グレーの部分はパソコンだった。また新聞業界にとっては、紙の新聞はコアな部分で、グレーな部分はニュースサイトやインターネットであった。
コアな領域に従事する人たちは、グレーな領域を軽視した。「あんなのコンピューターじゃない」「ネット上の情報なんて役に立たない」などという感じだ。しかしコアな製品、サービスが満たすことのできない新しいニーズをグレーな領域の製品、サービスが満たし始め、グレーな領域が拡大する。技術革新は、コアな部分ではなく、周辺のグレーな領域で起こるのだ。
その技術革新がさらに進むと、グレーな領域の製品、サービスが、コアな領域のニーズまでをも満たすことができるようになる。そして次第にコアな領域の製品、サービスの占める割合が低下していくわけだ。
まとめると、技術革新は周辺のグレーな領域で起こる。コアな領域とグレーな領域を合わせると、技術革新の結果、市場は大きく拡大する。ただコアな領域の製品、サービスは、グレーな領域の製品、サービスと比べて少なくとも相対的に地位を低下させるだろう。最悪の場合は、売り上げ額という絶対的な数字の低下もありえるだろう。
▼テレビでは、放送と通信は融合しない
メディア消費の形が三層共存し、層ごとに比較すれば大きな変化と呼べるが、層の中の人たちはそれほど変化を認識していないし、急速な変化を望んでいないようにみえる。一方で、技術革新はコアな部分の周辺から始まり、ゆっくりとコアな部分にまで浸食していく。
この2つの現象が、変革期の特徴であるのであれば、ここ何年かよく話題に上る「放送と通信の融合」は、多くの人が考えているような形で起こらないであろうことが分かる。テレビ局が、ホームページに番組の詳しい情報を載せたり、メールで寄せられた意見を取り入れる、というレベルのような「融合」なら起こるだろう。しかし、みながわくわくして想像するような融合は、テレビを主体にしたコアな領域では少なくとも数年から10年先の近未来には起こらないだろう。これからもしばらくは「放送と通信の融合」とは、、番組とホームページの連動ぐらいのものである。その程度である。
それは、テレビなどの従来型メディアに慣れ親しんだ層の人たちが、現状のテレビのあり方にそれほど不満を抱いていないからだ。「テレビがネットにつながれば、いろいろな情報が取得でき便利ですよ」「デジタルデバイドで取り残されますよ」といわれても、現状に不満を抱いていない人にとっては余計なお世話だ。ましてやネットにつながることで「成りすまし」「詐欺」「ウイルス」「プライバシー侵害」などのマイナスの要因が存在すると聞かされては、なおさら「融合」など望まないだろう。
ニーズが高くないので、放送局側は実験的に動いたとしても、本腰を入れて「融合」に進むことはないだろう。近未来にネットがテレビのインフラを飲み込むことなどないのだ。テレビはここしばらくもテレビであり続けるのだ。
しかし通信の側、つまりインターネットやケータイの領域での、テレビ的なコンテンツの取り込みが加速度的に増えていく。ネットがテレビ的コンテンツを飲み込んでいくわけだ。テレビという通信のコアな部分ではなくネットという周辺部分で、インフラではなくコンテンツでの「放送と通信の融合」が進むのだ。
電通総研の元社長の藤原治氏が書いた「広告会社は変われるか」(ダイヤモンド社)の中で藤原氏は、ネットとメディアの「本格的な融合に向けての、最大のモメンタムは、テレビ地上波のデジタル化である」と主張している。その理由は、「地上波がデジタル化することによって、デジタルであるネットと同質となり、融合のハードルの1つが取り除かれるからである」としている。
それ以上の説明がないので、どうして地上波デジタル化が融合を推し進めるのかよく分からない。わたしはテレビ番組をデジタルレコーダーで自動的に録画しており、録画した番組をiPodに転送して視聴している。iPodへの転送はデジタルレコーダーの上に置いた変換機にiPodを乗せ、ボタンを押すだけ。「融合のハードル」をボタン1つで簡単に乗り越えている。
藤原氏は、融合への本格的動きとして、この地上波のデジタル化に加え、「ブロードバンドの普及」、「蓄積型テレビの登場」の3つを挙げている。「ブロードバンドの普及」はいいとして、「蓄積型テレビの登場」もどういうことかよく分からない。なぜ「登場」なのか。どうして「普及」ではないのだろう。現在普及が進んでいるデジタレコーダーとは違う、新しいタイプのテレビが「登場」してくるのだろうか。本の中には「全局の24時間分の番組が録画できる」とある。どう読んでも現在のデジタルレコーダーの録画容量が増加されただけの代物のようである。
こうした要素が、放送と通信を融合させるとあるが、わたしはこうした要素を持ってしてもテレビという領域には、当面大きな変化はないと思う。
変化はテレビ以外の領域、グレーの領域から始まり、テレビにまで影響が及ぶのはある程度の時間がたってからであろう。
春以降に刊行予定の「経済リワイヤリング=メディア、広告の未来」(仮題)用の原稿素材です。未完成原稿ですので、引用にはご注意ください。誤字、脱字の指摘を初め、反論、コメントは大歓迎です。
関連記事
コンテンツ評価の物差しは「共有」へ
ネット覇権争いの主戦場は「広告マーケットプレース」に